いつのまにか眠っていた。いや、気を失ったというほうが正しいか。
ハルトはゆっくりと鼻から息を吐き出し、薄目を開ける。
背中と硬い床面との間には、真綿を敷きこんだような温い浮遊感があった。
外界とこの部屋を隔てている灰色の壁面は、そこだけ白く、 切り抜いたように陽が当たっていた。
胡乱な視線できざはしを辿ると、窓から見える空はいつもと全く代わり映えのないものだった。
この街は事あるごとに土煙が舞い上がり、なにもかもが薄汚れたフィルター越しに見ているように
遠く不明瞭だ。ぼんやりとした風景の中、太陽ばかりがやけに攻撃的で、
瞳孔を突き刺すような眩しさに目を瞑ればチカチカと明滅する白い光に、
ハルトは大の字に横たわっていながら、足元を攫われるような眩暈を覚えた。



家財道具をひとつ、またひとつ売り払い、辛うじて器だけが残った。
まったくの空っぽであれば諦めもつくのだろう。
けれど、壁の日焼けや床の傷、はめ殺しの天窓から差し込む光の、刻々と変わる角度、強弱。影の濃淡。
果敢ないことだと解っているのに、記憶を反芻してしまうには充分すぎるほどの痕跡が残っていた。
今ならば、幸せだとも言い切れる、凡庸な日々の暮らしの残像が。
確かに、自分たちが、そこで生きていた証が。
出窓の桟には埃が積もり、その埃が舞い上がってできた靄の中に、花を飾る母の幻影を見た。
それは、うつらうつらとしているときによく現れて、消えた後には絶望感だけが残った。
ざまあねえ。ハルトは自嘲の笑みを作ろうとした。が、片頬が微かに引き攣っただけで失敗に終わった。
全身が重かった。硬い床に張り付いたように、動かない。
息を吐いたら、あばらに痛みが走った。眉を顰めて、小さく舌を打つ。
爛れたように熱い口中は、鉄の味が充満していた。唾液を幾度も飲み込んでも、生臭さは消えない。
演習中の軍用機が上空を飛んでいる。轟音が今日はやけに低い。
去った後の残響に耳を澄ましていると、数時間前の興奮がざわざわと、
耳鳴りとともに蘇ってくるのだった。
暗転した視界に映る三流活劇のようなそれこそが、逃れようのない現実で。
紛れもなく、今、自分の存在している世界だった。
それは獰猛で酷薄な獣のようだった。器の中から外に出れば、容赦なく襲われる。
いつでも鋭い双眸をぎらぎらと耀かせて、脆弱な自分たちが野垂れ死ぬのを待っているのだ。



「………兄さん」
頭上から声が聞こえたが、知らぬ振りをした。
「返事くらいしなよ」
ため息混じりに言ったあと、含み笑いが聞こえたかと思ったら、下唇の傷に触られて、
うっかり肩がびくりと動いてしまった。ハルトは忌々しげにアキを眇める。
「これはまた、派手にやられたもんだね。薬、塗ってあげるよ。あと、湿布も」
ハルトはそっぽを向いて、終始無言だったが、アキは意にも介する様子はない。
「兄さんがガラの悪そうなやつらにボコボコにされてるの見たって、タキさんが」
持ってけってさ。頼みもしないのに、頬の切り傷に薬を塗りながら、アキが肩を竦めて笑う。
気遣いと諦めが薄っすらと滲むその顔が、弟や友人と喧嘩をしたときの母の顔と重なって、
胸がしくりと疼いた。
「この薬、家にも置いてあったよね。母さんがよく塗ってくれたっけ。
 ああ、俺より兄さんの方がよく覚えてるか」
アキが目を細めて懐かしそうに言う。聞こえていない素振りで、ハルトはただ低く呻いた。
肺を膨らませる度に、肋間に焼いた楔が刺さっているような痛みが走る。
「それから、これ」
言って、アキは傍らに置いてあった紙袋を見せた。中にはトマトが四つ入っていた。
タキの農耕プラントで収穫される野菜は、カイエン市内では美味いと評判が高い。
とはいえ、この枯れた土地では他に比べられるほどの農作物が採れるわけでもないのだが。
「タダで貰ってきたわけじゃないからね」
アキが軽く唇を尖らせる。常日頃から施しは受けるなと強く言い聞かせているためか
袋を覗いた瞬間吊りあがった、ハルトの眦から察したのか。
それにしても、とハルトはふと不思議に思う。
こちらはまったくの無視で、アキが勝手に喋っているだけなのに、会話が成立してしまっている。
いかにも自分の思考は判りやすいとでも言われているようで、ハルトは気分が悪い。
その中身があながち見当違いともいえないから、尚更、居た堪れなかった。
「これは、収穫の手伝いをしたから貰った。れっきとした報酬だ」
アキは袋からトマトをひとつ取り出して、誇らしげにハルトの眼前に翳した。
真っ赤に熟れたトマトは、天窓からの陽射しを受けてつやつやと光っている。
鼻先に突きつけられた蔕からは、採りたての野菜特有の青臭さが強く匂った。



「あのね……兄さん」
言葉の歯切れが悪い。伏し目がちで、どこか落ち着きがない。
アキは元より相手の目を真直ぐに見てものを言う人間だったから、
なにかを言いあぐねているのだと、よく判った。
渋るハルトのシャツを強引に肌蹴させて湿布を貼る、その自分の手先だけを見ている。
開きかけた口を、すぐに引き結び。やがて諦めたように息を吐いた。
切り出そうとしている話の内容に、十中八九、ハルトがNOと言うのをアキも判っているのだ。
こういう物怖じしている風の顔は、子供の頃から見慣れているものだが、
これからも、ずっと、忘れることはないだろう。
生意気な口ぶりに腹が立ったときに、アキのこの顔を脳裡に浮かべると、胸が空く思いがするのだ。
「……タキさんが……さ」
やっぱりな。お前が俺のことを判っているというんなら、俺だって同じだ。
判りやすくて、いっそ嗤える。ハルトは、額に張り付いていた前髪を拭い、小さな笑声を漏らした。
「なにが、可笑しいんだよ」
「お前、ちっとも成長してねえな」
「こんなとこで、駄々を捏ねてるような兄さんに言われたくないね」
「俺が……なんだって?」
「いつまでもガキみたいに拗ねちゃって。喧嘩してはここに逃げ込んでさ」
「悪いか。ここは俺の家だろうが」
「ここには、もうなにもない。家だって売りに出てる。俺たちのものじゃないよ」
しがみついているのは自分だけだと、その言い様から察せられて、ハルトは奥歯を噛み締める。
もし身体が思うようになっていたなら、アキの胸倉を掴んで一発殴ってやってもよかった。
けれど、感情に任せて殴ったところで、図星だと認めてしまうことにも思えた。
動けなくて幸いだったのだ。不本意ではあったが、そう納得して、ハルトは冷静を装うことに決めた。
「……タキの親爺がなんだ」
投げ遣りに言って、ハルトは首を捻った。たしかポケットに煙草が入っていたはずだと、
倒れ伏す寸前に脱ぎ捨てた上着を探す。
所々が擦り切れてボロ布同然になった上着は、すぐに見つかった。
が、あきらかに不機嫌そうな顔をしたアキのすぐ後ろにあるために、今の状況で取ってくれとは、
また面倒なことになりそうで言い出し難い。ハルトは浅いため息を吐いた。
ため息を吐きたいのはこっちだとでも言わんばかりにアキは眉間に一本皺を刻み、
やがて淡い苦笑を浮かべた。
「タキさんがうちに来い、って……住み込みで働かないか、ってさ」
「なにを今更。お前は、とっくにそんな状態じゃねえかよ」
なにもかも、さっさと捨てて。恨み言に似た呟きを飲み込んで、ようやく上着に手を伸ばす。
掴む寸前でアキがそれを拾い、知った風にポケットをまさぐる。
取り出した煙草の一本をハルトの口元に差し出す。火を点けたあと、困ったように眦を下げた。
「判ってるくせに……しょうがないなあ、兄さんは」
諭すようでありながら、両腕いっぱいで包み込まれるかのような温かさで言う。
顔立ちばかりか、そんなところまで母親に似てやがる。思いがけない懐旧にハルトは息苦しくなる。
吐いた紫煙が小刻みに揺れた。動揺している内心のようなそれが、埃っぽい空気に紛れて消えるさまを、
ハルトはじっと見詰めていた。
「タキさんが心配してるのは兄さんのことだろ。俺だけ行ったって、意味がないじゃないか」
確かに。そこならば、柔らかいベッドもある。温かい食事もある。
盗みまがいのことをして。取り分のことで、したくもない浅ましい小競り合いをしなくても済む。
なにをそんなに意地になっているのか。正直、ハルト自身も判然としない。
仲間意識。擬似家族。傷の舐めあい。口先では格好悪いといきがってみても
その心地よさに、流されてしまうのだろう。結局自分は無力で脆弱なのだと、ここ数年で思い知らされた。
与えられた温もりを享受するのは、拒絶するよりはるかに簡単だと知っている自分は、きっと
面倒なことはすべて隅っこに追いやって、気がつけば取り返しのつかないほど歳を重ねてしまうのだ。
それでいい。いいじゃねえか、べつに。楽に生きていけるなら、それに越したことはない。
しかし、それでいいのだと、半ば自分に言い聞かせるように思うたびに
焦燥にも似た感情が、背肌をじりじりと熱くするのだった。それは堪らなく不快で、ともすれば叫びそうになるほどだ。
空っぽの腹の中が、焦げ臭い匂いで膨らんでくる。胸が痞えて、軽く吐き気を催す。
ああ、ちくしょう。面倒くせえ。ハルトは煙草のフィルターを前歯でぎりっと噛んだ。