発露

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土田×金子 2/28




どうにも収まりのつかない焦燥のようなものが足裏から這い上がってくるのだった。 一歩進めるごとにその得体の知れない感情は明確なものとなり、口をひらけば勝手に零れてきそうだった。 先に、眼界のずっと先まで植えられている木々の正確な名前など知りはしない。 知らなくとも支障はないから構いやしないが。 見慣れているのに名前を覚えてもらえない裸の立木は、夏には誇らしげに葉を生い茂らせていただけに、 どこか滑稽で不憫ではあった。 自分の歩がいつもより遅いとは思えなかったが、今日は前を歩く背中に一向に追いつけなかった。 小走りに寄れば追いつけようものを、なぜか一定の距離を保って歩いている。 ちょうど立ち並んだ木と木の間ひとつぶん。 夕さり少し前の陽光が作る土田の長い影は、そんな俺を笑っているように見えた。


ふいに突風が吹いた。冷たい風が頬を打ち、足元の土埃を吹き払っていった。 束の間の暗転。やがて目蓋を抉じ開けた後に視界を占めていたのは、 傍らの立木のようにすっくと立つ土田の姿だった。なにか珍しいものでもあったのか、 頭上に伸びる枝を見上げていた。 土田はいつでも姿勢が良い。陽だまりで船を漕いでいようとも、呆けたように窓の外を眺めていようとも、 そうとしか言いようのない佇まいをしていた。 この男の生まれ持った気質や、そうありたいと鍛錬した賜物のせいならば、 たとえどんなに乱れた格好であってもそう思えてしまうのは、俺だけというわけでもないのだろう。 土田は真直ぐな男だった。背筋も真直ぐにぴんと張っているようであれば、頭の中にも腹の中にも 堅固な芯が一本通っているような男だった。 黙り込んで迷っているようであっても、答えなどとうに自分で見つけているような 男だった。誰の手も必要としない。否、手が差し伸べられていることに気がつきもしない。 鈍感で、不器用な男だった。不器用なくせに潔くて、その潔さは俺をなぜか苛立たせた。


俺が隣にいることを、至極当然のような顔をして受け入れているから、ともすると錯覚してしまうのだ。 俺は特別なのだと、お前にとって俺は特別な人間なのだと。 そうして俺を浮かれさせておいて、お前は突き落とす。手が届く程度の優しさは残して。 俺を置き去りにする。まるで今ここにいるのは己だけであるような顔して、ただひとりで立っている。 お前が背中を、そんな優しくて残酷な背中を見せるから。



掴んだ土田の手は想像より冷たかった。けれどそれ以上に俺の手は冷たかった。 冷たかったのだろう、きっと。振向いた土田は一瞬手を退いて、けれど離そうとしない俺を見て怪訝そうな顔をした。 かちあった無垢な、無機質なガラスのような眼球には、俺の顔が映っていた。 さすがに表情までは窺えなかったが、そこにある俺はずいぶん間抜けな顔をしていたにちがいない。 笑おうとするが頬の筋肉が強張ってうまく笑えない。なにか言おうにも喉が塞がって声が出ない。 そもそも、なんと言ったらいいのか判らない。握りしめた手が徐々に熱を持つ。 手を握っただけで、こうもすぐに温かくなることに俺は少しだけ驚いていた。 そして、そういえばこんな風に誰かと手を繋いだのは久しぶりだと思ったら、 相手が土田であることに関係があるのかどうかは知らないが、手ばかりか胸の辺りも温かくなった。 そうこうしている間に、土田もそろそろ痺れを切らしはじめたらしい。 眉間に少しだけ力が入っている。きれいに生え揃った睫と真っ黒な瞳が好ましい、などと考えながら 目を細めた俺を、土田は険しい表情のまま見ていた。 見つめていた、とは違うだろう。それほど甘いものじゃない。 なんだ、と無言のまま視線で問われる。答えない俺の手はまだ土田の手を握っている。 俺は、自分のとった行動を持て余していた。離したくないから、とは言えなかった。 それを理由にできると思うほど俺は幼稚ではないし、 離したくない理由が判らないからなにも言えなかった。 金子、と土田の唇が動いた。抑揚のない声。それがいっそ不機嫌さを表わしていたともいえるが、 この男の頬が仄かに紅いのは、冷たい風のせいだけだろうか。 土田は嘆息を溢した。手が振り払われるのは時間の問題だろう。 握ったままの手が心なしか汗ばんでいる。この汗は俺のものか土田のものか。 そんなことはこの際どちらでもいい。俺はただ、この手を。



距離は急速に縮まった気がした。物理的な問題だけでなく。 そう思っていること自体、すでに俺の負けであるような気がしていた。 土田は何事もなかったように再び前を向いて歩き出した。 そして今俺は、その男と肩を並べて歩いている。 口惜しさを胸に留めきれずに傍らを見遣り、顔を背けては嘆息した。
「……くそっ………この俺が」
頑なに離したくないと握った手を、俺のほうから離そうとしたとき、 ふいにその手を土田は引いた。視線を上げれば土田はこれといった表情の変化も見せずに、 唇を俺の唇に重ねてきた。呆気に取られていた俺がすぐさま我に返って逃れようとすれば、 少々乱暴に顎を掴まれた。口中に入ってきた舌はするりと歯列をなぞり           俺はされるがまま、目を見開いていることしか出来なかった。




その並木道は、植えられた木々の種類とはまったく関係のない名前がつけられていて、 とはいえ調べてみる気にはどうしてもなれず。 結局、卒業するまで正確な名前は判らずじまいだった。