Calme

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光伸×真弓




「軽々しく口にしないでくださいよ」
裸のままの下肢が少し寒い。背を預けた壁板が己の体温で温もってくる頃、真弓は唐突に言った。 呆気にとられた光伸は咥えた煙草に火も点けられない。傍らを眇めれば真弓はシャツの釦を填めていた。 器用に動く指先が胸肌についた情事の痕を覆い隠していく。
「なんのことだ」
「雰囲気に流されたみたいに」
言って真弓は冷めた視線を遣した。そういえば以前からこいつには、ときおり驚かされた。 華奢な骨格に薄く柔らかい皮膚。そんな外見を追い越して中身ばかりが成長してしまったような。 子供のくせに、妙に大人びた顔をして。 その「ときおり」とはどんな状況だったかと学生時代を思い出しながら、光伸はようよう煙草に火を点けた。
「愛なんていう言葉をさ」
あぁ。けして了承ではない声を嘆息に混じらせた。 言ったような気もするし言っていないような気もするとは、言えば面倒なことになりそうなので言わないでおく。 しかし、そんな情欲の色を残したままの眦を尖らせないでくれないか。それでなくともシャツの裾から覗く白い腿やら薄紅色の踝が、 先からやけに卑猥に見えて目のやり場に困っているのだ。光伸は苦笑するとゆっくり紫煙を吐いた。 朝から降り続いていた雨はやがて雨足を弱めたが、いまだ外界は仄昏い。 隙間から入り込む湿気は書斎の、もとより卑湿な空気をいっそう重いものにしていた。
黙り込んだ光伸に怪訝そうな顔を浮かべた真弓は、すぐ傍らに座り肩を寄せてきた。 衣擦れが聞こえなくなると、ひっそりとした静けさが身を包んだ。 薄い吐息の音以外なにも聞こえない。雨はあがったのだろうか。
「判っていないくせに」
あいなんて。真弓はぽつりと呟いた。身を包む静けさが生温い熱を帯びた気がした。 光伸は顎先を持ち上げて細く息を吐いた。指に挟んだ煙草の先から立ち昇る一条の紫煙が 静寂に紛れて消える頃口を開いた。
「そういうお前は判っているのか」
尋ねたところで答えられやしまいが。光伸は皮肉げに口唇を歪めた。 自分はそれなりの場数を踏んできており、興奮剤のひとつとしての睦言は吐き慣れている。 判っているさ。贋物と本物の違いくらい。少なくともお前よりは。 そう言ってやりたかったが、触れた肩から流れ込む真弓の体温は心地よくて。 むげに突き放すのは惜しい気がした。
「さあ …… どうかな」
頭一個分の重みを肩に感じただけで、幸福感に満たされている。 ともするとこれは絶望にも近しいかもしれないと光伸は胸中で嗤う。
「そんなものここにはないってことだけは、判ってるけど」
どんな顔をして言っているのか知りたくて、光伸は首を捻った。 もの憂げに瞬く目蓋には蒼い影が落ちていた。気づいた真弓はついと顎を上げてこちらを見返してきた。 ここにはないと言いながら、諦めたような目をしていながら。 紅く色づく唇はそれを欲しているように見えた。 ほしいほしいほしい。それだけでいいから、と乞うているように見えた。 光伸は手を伸ばし、真弓の頬を指の背で撫でる。 他愛のない接触にさえ小さく身じろぐ身体が愛おしかった。 ここにはないと言うのなら、この内に満ちるものは一体何なのだろう。 光伸は真弓の唇に己のそれを重ね合わせながら
「判らなくとも構いやしないさ」
それ以上でも以下でもない、ただそこに在るだけの温度を享受するために互いの指を絡める。