不可避

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光伸 真弓 12/10(光伸誕)




暗褐色の空から冷たい雨が降り落ちる。 濡れるから気が重いのか、気が重いから濡れたくないのか。 どうでもいいことを考えあぐねて、判ったといえばやっぱり雨は嫌いだということくらいだ。 繁華街の賑わいがざんざ降りの雨音にかき消され、人通りは一時沈黙する。 其処と此処とが断ち切られる。一過性のセンチメンタリズム。たかが雨ごときで疎外感を感じている。


僕は運の悪さを恨んだ。舌打ちながらもその場から離れなかったのは、 人恋しさのせいだとは絶対に思いたくはないし、まずありえない。 しのぎに潜った雑貨屋の軒先にも雨は吹き込んできて、外套の半身をうっかり濡らした。 隠れて手を固く握り込んだ。失敗した。傘を持たずに出かけたこととか。違う場所に立ってみようと思ったこととか。 元凶を考えてみればそこに辿り着いて間違いはないけれど。なにより、その人の悪い噂をすっかり忘れていたことが悔やまれた。 身動きの取れないこの有様を浅はかだと嗤うだろうか。 どうしてこんな時間にこんなところで、と詮索されたらどう誤魔化そうか。考えていたら面倒になってきた。 つまりは見つからなければいいのだ。通りに背を向け、顔を伏せて遣り過ごすことに決めた。
「……… 木下 …?」
思わず顔を上げてしまった。なんて卑怯な。 どうして今日に限ってそんな声で僕の名前を呼ぶのだろう。 眉根を顰めて不快感を露わにする。 僕のことなんて気に留める価値も無い、どうでもいい存在だと思っているくせに。 僕のことをなにも知らないくせに        などとは口が裂けても言わない言いたくない。 それは自分を知って欲しい人間の常套文句だからだ。 声は聞こえなかったことにした。知らぬ素振りで空を仰ぐ。この人に同情されるくらいなら濡れたほうがまだマシだ。 覚悟を決めて脚を運ぼうとしたら、雨だれが頭上でにわかに音を変えた。 傘を差し出されたらしい。差し出した当人は眼前に立っている。あまりに近くその顔があったので、一瞬息を飲んで後退る。
「…… な、に」
「説明してやらねば判らんほど、お前は莫迦なのか」
その人は眦を少しだけ吊り上げ、突き放すように言った。 まるでこの状況が自分の意思ではないとでも言いたげな。けれど向き合った自分たちの間にある傘の柄を引っ込める気はないらしい。 濡れてそこだけ色を変えた僕の外套を見て、その人は微かに小首を傾げて顔を曇らせた。
「結構濡れたな」
「そうですね。先輩も早く帰ったほうがいいんじゃないの。足元だけじゃ済まなくなりそうですよ」
ではおやすみなさい、さようなら。言って去り際に、鮮やかに微笑んでやろうと思っていた矢先に手を掴まれた。 掴んだ僕の手を引いて、その人はずんずん前を歩く。 不意を突かれて唖然とし、歩が遅れた僕の身体が傘からはみ出ているのに気がつくと、 いっそうその手を強く握る。強引に傘下に引きいれた。 傘の縁から滴り落ちる大粒の水滴がしとど足元を濡らしてゆく。 外界から遮断されたこの傘下だけが、世界のすべてであるような錯覚に陥る。 取り残されたのが「ひとり」でなく「ふたり」になった。 救われた気になっている自分に腹が立つ。 いっそ手を振り払えず、口を噤んでただこの人の後をついていく自分が誇らしく思えて。 誇らしく思っている自分が酷く惨めだった。僕の体温とこの人の体温。 違っていてもたかだか一度、大差はないはずだ。なのに僕の手は冷たい。僕の手だけが。 乖離する温度に総毛立って背筋が震えた。
「寒いか」
「あたりまえだろ」
刺々しく言えばその人はおもむろに立ち止まり、傘の柄を持たないほうの手で僕の頬に触れた。 そして、冷たいなと言った。 その声色と、片頬全体を包み込むような手の温かさに困惑が隠し切れない。 見開いたままの目蓋がぴくりとわなないた。やがてその人は呆れたように嘆息をひとつ溢した。 そして再び手を掴み、無言で歩き出した。 もう本当に勘弁して欲しいのだ。どうしてこんなに泣きたくなるような真似をする。 さっさと僕を放り出して、あんたはひとりで帰ったらいい。 そうして僕は雨に紛れてようやく泣ける。それがいい。その方がずっと優しい。 引っ張るその手があまりに潔くて、当然のように胸を張って前を歩くから。 文句のひとつも言えやしない。