正射影

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光伸 真弓 




昼夜問わずの仕事に追われてふと気がつけば、庭に生えた影にはすでに惜陰が濃く。 急に気になり始めた金木犀の甘い芳香には軽く眩暈を覚えた。 三和土から一歩足を踏み出したとたん眼球に陽光が突き刺さる。 寝不足で疼く眉間に皺を刻んで目蓋を抉じ開ける。 滑りの悪い引き戸を騙し騙し後手で閉め、顔を上げたら目の前に光伸が立っていた。 なにがそんなに楽しいのか。咥え煙草のその顔には人を小莫迦にしたような笑みが貼り付いていた。
「なんなんですか、一体。戻ったばかりで、あまり寝てないんですけど」
「それはそれは。仕事熱心なことだ」
呑気な声に、誰のせいだと内心で毒吐く。 光伸はついと指先を真弓の眉間に伸ばした。
「いつまでもそんな顔をしていると消えなくなるぞ」
「先生の担当でなくなれば跡形もなく消えますよ」
皮肉をたっぷり塗して言ってやれば、光伸は声を上げて笑った。 無精髭を綺麗に剃って、数日振りにまともに見られた顎は細く尖っていた。頬も心なしか削げている。 見え隠れする影と憂いに、何故か胸がざわりと騒いだ。深い嘆息を溢した真弓を尻目に、光伸は背を向け歩き出した。 ついてこいとは言わないで、けれど追ってくることを信じて疑いもしない。真弓は再び嘆息する。 どこまでも驕慢な態度に憤りもするが、そんな背中にどこかしら甘い期待を抱いてしまう自分にもほとほと呆れる。


頬を撫でる風は昨日のものとは確実に違っていた。 夏だけがその最期は鮮明でうら淋しい。 夏だけが逝くのだ、とは誰が云ったか。 夏だけが。真弓は光伸の背中を見るともなしに見ながら、数歩後ろを歩いていた。 こうして平穏そのものの顔で、共に歩けることをただ願っていただけのあの頃は、 ずいぶん遠い日のことになってしまったらしい。戦争は終わった。時勢はまた違った方向へ流れ始めている。 世の中は混沌とした活気に満ちており、皆が皆、背中を押されるように生きている。 押されては時折つんのめりそうになりながら。煩い事に気をとられている余裕などない。 自分にとってそれは幸せなことだった。幸せなのだろう。おそらくは光伸にとっても。


戦渦から帰還した土田は片腕を失くしていたのだと、告げる光伸の声は静かなものだった。 生きてさえいればそれでいいと。夏も盛りを過ぎようという頃の、木洩れ日が揺れる濡れ縁で、 哀しみも怒りも窺えない顔で言った。 光伸は紫煙を吐きながら天上を仰いだ。 見上げた空は誰の頭上にも平等に広がっていて、だから此処と其処とは繋がっていて。 そんな陳腐なセンチメンタルを光伸は嗤うけれど、何処か遠いところを見ているのだろう横顔に、 同じように空を見上げているその人の凛とした佇まいを思い浮かべることは容易かった。 そこにはあまるほどの情が在った。 なにをどう言おうと言尽くせない、けれどそのたった一言がすべてであるような。 それが単なる友情であるのか秘めた恋情であるのかなど、 傍らに座っているだけの自分が知る必要はないと思った。


常よりひと気の少なくない参道に、今日は一段と人が溢れている。 追い越していった子供の声が喧騒の中でもひときわ高く、鼓膜を打たれて真弓は我に返った。 その無遠慮な嬌声にも要らぬ邪推を巡らす自分にも苛立って、あからさまに不機嫌な顔をした。 こちらを見た光伸がたいそう楽しげに笑うので、尚更腹が立った。 路の両端に並んだ店に目新しいものなどなにもない。 安っぽい匂いに安っぽい灯り。夜店の金魚掬いはするもんじゃない。すぐに死んでしまうから。 子供の時分にそう言われた。光伸は真弓の視線の先を見遣っては、やりたいのかと訊いた。 隣りに並び立ちその手は自分の肩に廻っている。 立ち止まっていたことにさえたった今気がついた真弓は、小さくかぶりを振って否定した。 宵闇にも鮮やかに映える献灯が、視界の端でゆらゆら揺れる。
             帰りたい
無性にそう思った。人酔いするような繊細さなど持ち合わせていないはずなのに、頭が痛い、胸が苦しい。 肩に置かれた手が疎ましい。言ってしまえばいい。 それが寝不足のせいなのか、それとも違うもののせいなのか、 どちらにしても帰りたいと、たった一言。言ってしまえば済むことだった。 言えない自分は、あの頃と少しも変わっていない。 そして光伸も。あの頃と少しも変わっていやしないのだ。 光伸の手を振り払おうと持ち上げた真弓の手は、そこに行き着く前に力なく落ちた。