明日の朝には

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蒼井×小早川 7/31




月に背中を押されるようにして歩いている。
歩いて、いるんだろうか。正直、自信がない。
けれど二本の脚は右へ左へ反れながらも、一応は運ばれているようだった。 おれは立ち止まり、背負うように支えていた小早川さんの身体を抱えなおした。



久しぶりに外で美味い酒が飲みたい、と小早川さんが言いだした。
「どうよ」
「……うん、美味いね」
薦められたワインを口に含んで、こくりと喉を鳴らして飲み込んだ。今まで飲んだ酒の中に、ここまで美味いと思えるものはない。 あまり詳しくないおれですら、一口飲んでそれが高級なものだと判った。 綺麗な金色のワインを湛えたグラスの中では、細かい気泡が踊っている。すぐに飲んでしまうのが勿体なくてしばらく眺めていた。 視線を戻せば、小早川さんは幸せそうに目を細めた。 よほど気分が良かったのか小早川さんは、自分のグラスにもおれのグラスにも空ける間もなくワインを注いだ。 二本、三本。途中からおれのペースはずいぶん落ちたけれど。四本、五本。小早川さんの様子はいつもと変わらない。 さすがに心配になったおれは、大丈夫?と口を開きかけたけれど、やっぱり止めた。おれが言うまでもないから。 小早川さんはその道のプロだった人だ。酒の飲み方からペース配分までちゃんと心得ているだろう     と。



店を出て、三つ目の角を曲がり。数歩過ぎたところで、それまでまったく普通の足取りで隣を歩いていた小早川さんがふと立ち止まった。 そして、ふうとゆっくりと息を吐いて空を仰いだと思ったら、その場に座り込んでしまった。
「どうしたの……具合、悪い?」
「……いや」
おれもしゃがんで目線を同じ高さにする。よく見てみれば小早川さんの目の縁が赤い気がする。 小早川さんは少しだけ辛そうな笑みをうっすらと浮かべてから視線を落とし、けだるそうに瞬きを繰り返した。 目蓋が重そうで、開くのに苦労しているように見えた。 小早川さんには申し訳ないけれど、おれはその姿が襲ってくる睡魔と必死に闘っている子供のように見えて。 心配しながらも、可愛いとも思ってしまった。頬をかすかに緩ませながら、 おれは小早川さんの腕を取り自分の肩に回した。



後にした歓楽街の喧騒がまだ耳の奥に残っていた。 おれも少し酔いが回っているんだろうか。 覚束ない足元には生温い夜風が纏わりついている。 小早川さんの火照った身体を抱きかかえているせいで、右半身が熱かった。 とくとくと伝わってくる心音と、遠慮なく預けてくる重みを愛おしく思った。 おれはずり落ちそうな小早川さんの腰を引き寄せた。回した腕に力を込めて、空を見上げれば 今夜の月はとても大きくて、生成り色をした表面にはクレーターの黒い影が薄ぼんやりと見えた。 大丈夫だ、おれは。とはいえ、酔っ払った男の脱力した身体を抱えながら歩くのにも限界があった。 ふらついた脚は大きくよろけて、おれは背中を、閉店と書かれた張り紙が貼ってあるシャッターにしたたかぶつけた。 思いのほか派手な音がして少し慌てたけれど、幸い辺りにはおれたち以外、野良猫一匹見当たらなかった。 当然、小早川さんの身体も倒れこんできて、咄嗟に胸に抱き込んでことなきを得た。 ほうっと緊張していた肩の力を抜いたら、なんだかふたたび立ち上がり、歩き出す気力が失せてしまった。 今のはちょっとヤバかったかもしれないと思いながら、おれは尻を少し浮かせてポケットに入った煙草を取り出した。 案の定少しひしゃげていたけれど、吸えないこともない。そうこうしていると目が覚めたのか、小早川さんは小さく呻いて身じろいだ。 肩を一度大きくいからせて、酒精混じりの息を吐き出した後、潤んだ目でおれを見た。 紅い唇が、まるでキスをねだっているように見えた。おれは一本抜きかけた煙草を戻して、 顔を傾いで唇を合わせた。口の中はやたらと熱かった。おれと小早川さん、酔っ払い二人分の体温が混ざり合っているのだから、 相当なものだろう。薄く開いた唇から滑り込ませたおれの舌に、小早川さんも応えるように舌を絡ませてきた。 うっとりと目蓋を降ろしたからまた眠るのか、と少し名残惜しいけれど舌を抜くと
「……なあ、蒼井」
唇は触れたままで小早川さんは言った。ごろごろと、まるで寝起きの声だ。苦笑しながら、なに、と聞くと
「……俺、さあ」
半分寝言のような拙いものの言い方で、それでも伝えようと無理矢理唇を動かしている。 そんな顔を見ているだけで、おれの胸は締め付けられるようなのに
「………ん?」
「蒼井が好き、だ………好きで、好き……で」
「……うん」



ときどき、くるしい。



嫌いじゃないから、好きなんだと思ってた。
いやじゃないから、付き合っていいと思ってた。
楽しくないわけじゃない。面倒だったわけじゃない。
けれどそれは、おれに劇的な変化をもたらすものではなかった。
さようならと言われても、そのさようならの意味を受け入れるだけで。
そうなのか、と思ったつぎの日には好きと言われたときのことをもう忘れ始めている。



知ってる。おれも同じだから。 こんな風に腕の中に強く抱き締めていても、なぜか泣きそうだなんて。 これが本当の恋で。本当の恋は気持ちいいだけじゃなくて、少し苦しいものなんだと。 おれは小早川さんに逢って初めて知った。
「……もう遅いよ」
言いながら、小早川さんの背中に廻した手を滑らせる。小早川さんは子供がむずかるようにおれの肩に額を擦りつけた。 おれはそれ以上、なにも言えやしなかった。ここには色んな感情の欠片が散らばっていて、混乱して、喉が塞がる。 宥めるようにゆっくり背中を撫でながら、酔いが醒めれば小早川さんは酷く後悔するんだろうな、と思った。 ふらふらに酔っ払って。いい歳をした男がガキみたいな甘酸っぱいことを、と。 頬を紅く染めて、顔を背けて恥ずかしがるんだろう。 とうとう眠ってしまったのか、目を瞑ったままおとなしくなった小早川さんの目蓋にキスをしながら。 おれはできることなら、明日の朝には全部忘れてしまっているといい、と思った。