それはきっと一過性の

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小早川 過去拍手御礼 1/16




冷蔵庫からビールを取り出すとドアに背中を預けて、ずるずるとその場にしゃがみこんだ。 Tシャツ越しに心地よい冷たさと微振動が伝わってくる。 一口二口と飲み込んだビールが胃に下りていく。浮かない気持ちが幾分薄まっていくような気がした。 静かだった。無音ではないけれど、ときおり聞こえる小さな生活音がいっそこの静けさを引きたてているようだった。
「……蒼井?」
言ってすぐ後悔した。いるわけがないのに。静寂にぽとりと落ちた自分の声がやけに淋しく響いた。 ああと呻いて立てた片膝に額を擦りつける。俺を淋しがりやだと塁は言うけれど、 そんなにとりたてて言うほどのものか。賑やかなのが好きなのも、なにかと人の世話を焼くのが好きなのも認めるが。 誰だって、今まで馴染んでいた他人の気配がふいになくなれば、こんな気分にもなるだろうが。









「営業妨害」
塁がカプチーノを俺の目の前に置いて、きっぱりと言い放った。 ならば、小ぶりのカップは飲んでさっさと帰れということか。 店には俺以外誰もいない。なのに親切にもカウンターに座ってやっているんだ。 少しくらい長居したって、そんなこと言われる筋はない。
「なんだよ」
むっとしながら言う。俺の掌にすっぽりと収まっている、ぽってりと可愛らしいデミタスに 口をつけて上目使いに睨んでやれば、塁は小さく肩を竦めた。
「だって小早川さん、さっきからため息ばっかりだよ。こっちまで憂鬱になる」
さも迷惑そうに眉根を顰めた。 塁の言いたいことは薄々判っている。俺は気づいていない振りをして、最後のひと口を飲み干した。 蒼井が実家に帰ったのは三日前。風邪をこじらせ入院した父親が気弱になったらしい。 携帯を耳に当てながら苦笑する蒼井の横顔は、今まで見たことのない種類のものだった。 心を許している、なんて実の親に向かって使う言葉でもないが。それに近い雰囲気を感じて、 やっぱり人の子だと、少し安心した。
「すぐ帰ってくるから」
そう言って、いつものように。スロでも打ちに行くみたいに、その辺に買い物にでも行くみたいに、 ふらっと出て行こうとしたから俺は、いい機会だから少しは親孝行してこい、 と送り出した。たくさんの土産と気持ちばかりのお見舞いを、受け取らない蒼井に無理矢理押し付けて。 かなりの放任とはいえ、やっぱり久しぶりに子供の顔を見れば嬉しいだろうなあ、とか。 蒼井のやつ、派手に甘やかされて困った顔してんだろうなあ、とか。 想像してはにやにやしていたのは二日前。
「で、三日経ってみたら、これってわけ?」
「 ……… だってよ」
しょうがねえだろ。うっかり漏らした本音に、俺は舌打ち顔を背ける。 気まずさを隠すために煙草を咥える。まるで今の湿りがちな気分を見透かしているかのように、 ジッポの火の点きが悪かった。







空は白み始めていた。 遮光カーテンの隙間を縫って差し込む薄い光と、冷蔵庫の小さく低く唸る機械音に、 見慣れているはずのリビングがなんだか水槽のようだとぼんやり思った。 蒼井がいない。どこにも。 家でうっかり名前を呼びそうになって。スロ屋で無意識に探している自分に気がついて。 あーそういやいないんだっけ、と薄く笑う。 そのときの、背中がすうすうする感じといったら。 塁のように、たとえばなにかに感けていられるならいいんだろう。 けれど、なんにもない、退屈を持て余しているような俺はだめだ。 静か過ぎるとなおさらだめだ。今までそこに当然のようにいた人間の不在を、 五感が勝手に拾ってしまう。 鼻の奥がつんと痺れた。あーやばい。ダメだ、俺。情けねえ。 そういえば、恥ずかしいだのみっともないだの、泣くことにそんなものを感じるようになったのはいつからだろう。 涙を溢す前に笑って誤魔化せるようになったのはいつからだろう。









それが慣れで、歳を取るってことならば、大人ってのは思うほど強くない。