お代は見てのおかえり(4)

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蒼井×小早川 12/10

目蓋を持ち上げて、まず視界に入ったのが見覚えのある天井だったことに、ほっとしていた。 夢を見た。滅多に見ないのに。どんな内容だったのかはよく覚えていない。 ゆっくり横を向くと、小早川さんは顔を半分枕に埋めてうつ伏せに寝ていた。 左の手の中には小早川さんの手が。おれの指と小早川さんの指は緩く絡まっていて、 それで少しだけ思い出した。手を繋いでいた相手は小早川さんで、おれたちはなにかを話しながら歩いていた。 一歩前を行く小早川さんは繋いでいない方の手をポケットに突っ込んで、 会話が途切れるたびに振り返り、軽く首を傾げて笑う。その顔を見たおれは笑い返すことができなかった。 思い出せたのはその辺りだけだった。もう断片しか残っていなくて、それももう薄れ始めていた。 ただ、強く握り締めていた指がだんだん解けていくときの心細さを、やけにはっきりと覚えていた。 手を繋いで寝るなんてことに慣れていないから、きっとそのせいで変な夢を見たんだろう。 絡めた指に力を篭めてみる。握り返してはこない。 小早川さんは、寝るとよほどのことがなければ起きない。 ホスト時代に身についたのか短時間でも、ぐっすり眠ってすっきり起きられる人だった。 他は忘れてしまっているのに、暗いイメージばかり色濃く残っている夢のせいで眠れない。 おれひとりだけが起きているのが、なんだかつまらない。 起こしてしまおうか。 今すぐに目蓋を開いて、深い茶色の瞳で、おれを真直ぐに見て欲しい。 胸の中の底の方に沈んでいる仄昏い気分を吹き飛ばすような笑顔を見せて欲しい。 握った手を引き寄せようとして思い留まる。 暗がりで見たせいかもしれないけれど、小早川さんの目蓋には蒼褪めた影が落ちていて、ひどく疲れているように見えた。 知らずに口が歪む。おれのせいだ。今日のセックスは夢中になりすぎて、少し無理をさせた。 やっぱり大人しく寝よう。布団を肩まで持ち上げようとして、この手はどうしようかと悩む。 じいっと眺めていたら、その手が引っ張られた。突然のことに心臓が、数ミリ跳ねる。 小早川さんが眠そうに細めた目で、こっちを見ていた。
「どうした」
喉に引っ掛ったような、掠れた声で言う。言ったあとに聞こえた息遣いは寝息のようだった。 眠っているのと起きているのが半々というところか。 なら、答えないほうがいいかもしれない。これ以上は目を覚まさずに、また深く眠れるように。 繋いでいた手をそっと離した。空気に晒された手の平のうすら寒さが全身に伝染するようだ。 布団をかけ直し、天井を見上げていると、小早川さんの手がなにかを探すように、おれの顔に伸びてきた。 女のように華奢じゃない、でも厳つくはない。迫ってくる白い手から、おれは目を離せなかった。 すらりと真直ぐな指が、おれは大好きだけど。 優しく頬を撫で始めたその手が、今はなぜか少し、ほんの少し憎らしかった。 それで、またひとつ、思い出した。手を離したのは小早川さんの方で、 おれはなにもできずに、ただ呆然と離れていく手を見ていた。 その手はきっと、おれの知らない誰かの手とも繋がれいて。 小早川さんはその誰かと、おれの知らないたくさんのものを共有しているんだ、と 夢の中のおれは思っていた。今思えば、それは嫉妬というものなんだろうけど、そのときのおれはぜんぜん分かっていなくて。 自分の精神状態すらよく分かっていなくて。どうしようもなくて、黙って見ているほかなかった。
「眠れないのか」
「……うん」
第一声は音に成らなかった。渇いた喉の粘膜が張り付いているようで、かるく咳き込む。 小早川さんは笑ったようだった。甘い吐息のような、とろりとした笑い声が耳朶をくすぐった。 頬から唇に滑ってきた小早川さんの指は、どこか思わせぶりな動きだから。 眠気を誘うどころか、数時間前のことを思い出させて困る。 小早川さんは小さな欠伸をしながら、今度は子供を寝かしつけるようにおれの頭を頬を撫で始めた。 いつもなら、小早川さんに触れてもらうだけで。触れられたところから温かいものが流れてきて。 その温かいもので胸がいっぱいになるのに。 ただ、それだけで嬉しいはずなのに……。 おれは、小早川さんの手を掴みとって、指を口に含んだ。 舌を絡めては、唇で扱く。そして、舌先を指の股までおろして、そこの薄い皮を丹念に舐めた。
「おい……くすぐったいって」
「気持ちよくなってきたり……しない?」
「……そうだな」
続く言葉を待っていると、顎を掴まれて。ふっと笑った唇が近づいてきてキスされた。 舌で唇を抉じ開けられて、ねっとりと中を弄られる。 口端から唾液が溢れそうなほどの激しいキスに、呼吸が乱れる。煽られる。 欲しい。小早川さんをつくっているものぜんぶが、ほしい。 おれだけのものにしたい。おれを、小早川さんのものにしてほしい。 おれだけを。小早川さんの中に、おれ以外の誰もいれないでほしい。 そんなことを考えている自分に気がついて、驚く。 おれはさっきから、欲しがってばかりだ。 こんな貪欲な感情を持っているなんて知らなかった。 多分、これは独占欲というもので、あまり良くない我が侭で。 小早川さんのこととなると見境のなくなるおれは、すごく始末に負えないだろう。 小早川さんの身体を力いっぱい抱き締める。いつもより速い心音が胸を叩いていた。 ひとしきり口の中を動き回った舌を抜いて、顔を離した小早川さんは、濡れた唇もそのままでにこりと笑った。
「お返しはこれでいいだろ?ほら、寝るぞ」
頭をぽんと軽く叩く。背を向けられて、おれは放り出された気分になった。 猫のように身体を丸めた小早川さんの背骨に額を当てて、バラバラになった夢の断片が、またひとつ、繋がったような気がした。 おれは夢と頭で理解していながら、なんだか怖くなって無理矢理、目を覚ました。 怖かったのは小早川さんの手が離れていくことじゃない。 おれは、手を離されたのになにもしないで、諦めている自分が怖かった。
「小早川さん」
「……ん?」
「いやだ」
「う……んん?」
すっかり寝入る態勢だったのか、小早川さんは半身を軽く起こして振り返り、重そうに目蓋を数回瞬かせた。 寝つきの良さが、今はなんだか恨めしい。おれは小早川さんの少し捩れた首に腕を回して引き寄せる。
「キスしてきたの……小早川さんじゃないか」
「ちゃんと寝とかないと、明日キツイだろ」
「………こんなんじゃ足りない」
小早川さんは顔だけこっちに向けて、しばらく動かないでいた。 やがて、呆れたようにため息を吐いた後、今度は身体ごと振り返って。まったく、と呟いた。
「俺は、お前みたいに、若くないんですけど」
「……うん」
「蒼井ぃ」
小早川さんは苦笑した後、おどけたように唇を尖らせてみせる。おれはわけが分からずに、首を傾げる。
「そりゃ、たしかにそうだけどさぁ。そんなことないよって……言ってくれてもいいだろうよぉ」
「……え?」
おれは「うん」と言ったけれど、それは肯定でもなく否定でもなく。なんというか、ただの相槌のようなもので。 それに、若くないって。小早川さんが自分で言ったのに。
「お前が言うと、さ……ほんとに、そんなことないかも……なーんて……思えたりするんだから」
なあ?と、甘えるような、ゆっくりとした口調で言って、小早川さんはおれの背中に腕を回した。 そして鎖骨のあたりに顔を埋めて、なにが可笑しいのか、くすくすっと笑う。 動かなくなったと思ったら、すぐに静かな寝息が聞こえてきて、おれも小さく笑う。 いいように、はぐらかされた気がする。 ズルイな、小早川さん。こんな風にされたら邪魔なんてできない。 息を吐くたびに揺れる小早川さんの髪に頬を寄せて、もう悪い夢は見ない、 そう確信しながら、いつの間にかおれも眠った。