お代は見てのおかえり(6)

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 塁と西田 塁と小早川 1/22 

スチームミルクのまろやかな匂いは、眠っていた記憶を揺り起こす。 それは陽だまりのように温かく、夕暮れどきのように少し淋しい。 俺の手元をじっと見詰める西田くんの綺麗な瞳は、その記憶の中にいる子供のものとそっくりだ。 微笑ましさを隠せなくて、くすっと笑ったら、西田くんは不思議そうに小首を傾げた。 ホイッパーで泡立てて、エスプレッソの上に静かに注ぎいれる。 ふくふくとした泡の白とコーヒーの茶の濃淡を上手く使って、ハートを描く。
「へえ……こうやって作るんだ」
純粋な感嘆の声に笑みを浮かべる。カウンターの上をそっと滑らせて、西田くんの前に差し出す。
「どうぞ」
「なんか、もったいないな」
西田くんは大切そうにカップを両手で包み持つ。けれどすぐに口に運ぶことはなく、 ほんの一瞬、それは瞬きひとつの間に消えてしまうほどあっけないものだったけれど。 思いつめたような表情で細い息を吐いた。
「大丈夫だから、飲んでごらん」
そんなことを気に病んでいるんじゃないと知っていたけれど、向こうから切り出さないなら理由を聞くつもりはない。 誰かさんと違って、俺はそこまでお節介じゃない。 西田くんは、カップの縁から中身を静かに啜り、唇についた泡を舐めた。
「あの、さ」
「……ん?」
きたか、と内心ほっとする。ほっとしている時点で、すでに片足を突っ込んでいるような。 思い過ごしだと自分に言い聞かせて、伏せておいた愛用のカップをひっくり返す。 どちらにしても、さっさと吐き出すといい。沈んだ表情なんて、西田くんには似合わない。
「片想いって、したことある?」
「あるよ、そりゃあ」
「そっか……そうだよね……」
西田くんは俯いて、薄く笑った。耳にかけていた髪がさらりと落ちて、頬に影を作った。
「俺もあった……っていうか、そんなのばっかり」
「ちょっと意外だな。西田くん、モテそうなのに」
「そんなことないよ。付き合ったこと、あるにはあるけどね。自分から告白して上手くいくって、あまりなかったな」
俺はカップにコーヒーを注ごうとしていた手をふと止めた。 俺の見える限りでは、西田くんは岸本くんと友情以上の親密な関係を築いている真っ最中で、羨ましいほど生き生きしてて。 とても充実しているように思えたのに。 そんなもの憂げな顔をして終わった恋を顧みるなんて、なんだか腑に落ちない。 西田くんは大きく息を吸い、目を細めてゆっくり吐いた。 大人っぽい顔をするようになった。 知り合ってからまだ日が浅いけれど、その短い間でも表情の変化には目を見張るほどだった。 もともと素直で純真だから、良くも悪くも順応性が高いんだろう。 それが若さというものか。ああ、やだな。 今に不満があるわけじゃないけれど。もう二度と帰れない、そこには戻れないんだと思ったら切なくなってきた。
「今も上手くいかない?」
「……え?」
西田くんは驚いたように顔を上げた。子犬のような稚い目をきょとんと丸くして、俺を見る。 そしてすぐあと、困ったように目じりを下げた。 これは最強の武器だ。小早川さんのお人好しが伝染したかと少し滅入ることもあったけれど、 こんな顔されたら、誰だって放っておけないんじゃないかなあ。
「……べつに……そういうんじゃないんだけど」
ねえ、塁さん。西田くんは親指の腹でカップの縁をなぞりながら、少し重そうに口を開く。 そこから出てきた名前はたしかに俺のものだけど、 どうやら、それは持ち主を素通りして遠いところに行ってしまったらしい。 どこか違う場所にいる、ほかの誰かに呼びかけているように聞こえた。
「片想いしてるときって、どうしてあんなに幸せだったんだろう」
西田くんはカップにふうっと息を吹きかける。泡に角が立って、ハートが歪んだ。











「……なんだよ、それ」
「くま。見えない?」
「違うよ!それっつーのは、それじゃなくて」
小早川さんの指先の延長線上では、ちょうど今、カクテルピックの先が口元を描き終えたところだ。 練習した甲斐もあって、初披露したクマの顔は、なかなか愛らしくできた。 けれど小早川さんにとってそんなことはどうでもいいらしい。 腹が立ったので、俺は話の方向を戻してやらない。 というのは建前で。 西田くんがぽつりと溢した言葉を俺は利用しようとしているから、ほんの少し後ろめたい、というのが本音だ。
「なに、気にいらない?」
軽く睨むと、小早川さんは付き合いきれないとでも言いたげに、ため息を溢した。あ、今のでちょっと意地になってきた。
「あれあれ?りゅーじくんはうさぎさんのほうがよかったのかなあ?」
「……りゅーじはうしゃぎしゃんより、おうましゃんのほーがいい」
「ゼッケンつけて札束背負ったお馬さんかー。でもお馬さんのほうはりゅーじくんのこと嫌いなんだよねー」
「そーそーいっつも裏切られて……って、うるせーよ」
「はははは、小早川さん、馬はまるでダメだったもんね」
「……塁……お前なあ……」
自分だって、軽くノッてきたくせに。 小早川さんは恨めしいとも、憐れんでいるともとれるような顔で俺を見る。俺は観念して肩をすくめた。
「なんだよ、って訊かれても。言葉のとおりだと思うよ」
「西田が……言ったんだよな?」
俺は肯く。あの西田くんが言った。だから、軽く流せない。 小早川さんの能天気な脳みそでも、そこになにか秘めるものがあると勘付いたようだ。
「片想いより、両想いのほうがいいに決まってるだろうが」
「普通ならそう考えるね」
小早川さんは柄にもなく深刻な顔をして、カウンターの上、ただ一点を見詰めている。 そんなに考え込まなくても、思い当たることはあると思うんだけどなあ。 西田くんが言いたいこと、聞いてもらいたいこと。 両想いだからこその、不安だったり焦りだったり。 報われるかどうか先が見えなくても、ただ一途に想い続けているほうが幸せだと思えるような。 あの前向きな西田くんが、思わず立ち止まってしまうようなことがあって。 再び歩き出すために、道標が欲しいと思っている。 そしてそれは、今の小早川さんにとっても他人事ではないはずだ。 「恋愛経験豊富」な小早川さんでも、そのスキルが今回ばかりは通用しない。 しばらく「恋愛ごっこ」ばかりしてきたツケが回ったんだ。 彼の本気にどころか、自分の本気に今ごろ怖気づいちゃってるってことに、小早川さんはそろそろ気づいた方がいい。 でも、まあ。気づいてないから悩むわけで、悩むことが無駄だとは俺はけして言わないけれど。 とうとう小早川さんは持て余して、俺に救いを求めるような視線を遣した。
「でもよ……あいつらが上手くいってないなんて話、聞いてねえぞ」
「そう」
俺は素気なく返して、さっき却下されたウサギの図柄を新しく作った泡のカンバスに描き始める。これが案外、難しい。 耳を大きく、長くすればいいってもんじゃない。可愛らしくならない。かといって、短ければウサギに見えない。
「なら、直接聞いてみればいいじゃない」
手元から視線を離さずに言うと、小早川さんは「へ?」と素っ頓狂な声を漏らした後、 頬杖をついて唸り始めた。
「うーん……そこまで立ち入って……いいもんかね」
「どうせほっとけないくせに」
言って、一瞬どきりとした。そういう自分はどうなんだ、と聞こえた声は空耳なので無視をする。