お代は見てのおかえり (7)

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蒼井 4/2

先に見切りをつけてスロ屋を出たおれはアールでコーヒーを飲んでいた。 小早川さんのほうは、声を掛けたときにちょうど確定がきてたようだったから、まだしばらくは来ないだろう、きっと。 来る途中で買った雑誌を読もうと表紙を開きかけたら、携帯のバイブが尻ポケットで唸った。 小早川さんからのメールだ。タイトルは無題で、用件は「今からそっち行く」だった。 おれは帰り際に見た、小早川さんの足元に積んであったドル箱を思い出す。 あれが飲まれるには時間的に早いし、流してくるには量的に中途半端だ。 一か八かの博打を打てないおれならいざしらず、 小早川さんなら全部突っ込む覚悟で、もう少し粘るだろうと思っていたんだけれど。 ……と、そこまで考えて「あ」と小さな声が出た。 それはおれの、都合のいい想像にすぎないけれど。心臓のあたりが温かくなった気がした。 ほうっとゆっくり息を吐いて、コーヒーをひと口啜り、再び雑誌を捲り始めた。



目ぼしい情報を一通り読み終えて顔を上げると、窓辺に置かれた観葉植物が視界に入った。 作り物のような肉厚の葉が陽射しを浴びてつやつやと光っていた。 ところで今は何時なんだろう。メールをもらってから、どれくらい経ったのか。 イライラする、というほどはっきり判るものではないけれど、なんとなく落ち着かない。 窓から差し込む光の強さと、その光が作る影の傾き具合が、ここに来たばかりのときと変わっているように見えるのは、気のせいか。 おれはドアの方に顔を向ける。小早川さんは、まだ来ない。 塁さんが淹れてくれた二杯目のコーヒーを見下ろしながら、おれは尻ポケットに手を伸ばした。
「小早川さん、遅いね」
その声にほとんど反射的に塁さんを見た。おれの口は「え」の形のまま固まっているんだろう。塁さんは薄く笑っていた。 客商売用の作り慣れたものなのかもしれないけれど、塁さんのそんな顔は、こちらが自然と心を開いてしまうような不思議な力がある。
「来るんでしょ?」
「……うん」
「珍しいよね」
「え?」
「小早川さんって、基本的に人を待たせるの嫌いだから」
「……そう、なんだ」
「そうかと思えば、自分が長時間待たされたり、ドタキャンされたりは、全然平気だったりするんだよね。職業病なのかなあ」
でも、それがさ、と言って、塁さんはティースプーンを磨いていた手を止めた。
「小早川さん。蒼井くん相手だと、ちょっと違うんだよねえ……」
語尾をゆったりと、意味有り気に伸ばして、塁さんはカウンターに頬杖をついた。 他に客が居ないとき限定で小早川さんの特等席になりつつある、窓際のテーブル席を見遣る。 そして、なにかを思い出したようにぷすっと噴出した。
「にやにやしてると思ったら、そんな時間も経ってないのに、段々そわそわし始めてさ。もうね、誰を待ってるのか、判りやすいったらないよ」
塁さんは視線を戻して、おれの顔をじいっと見る。我慢しているようだけど、目は完全に笑っている。 おれはなんだか、秘密を暴かれたような、妙に気恥ずかしい気持ちになって、視線を手元に落とした。 ずっと握っていたせいで、体温で温もってしまった携帯を見下ろしながら。 おれは平気な振りをしていただけで、充分待ちわびていたんだ、と気づく。会いたい気持ちが、時間の経過を曖昧にするほど。 そして小早川さんも、今のおれと同じように。いつもおれを待っているんだと思うと、居てもたっても居られなくなった。 携帯をポケットに突っ込んで、帽子を頭に乗せる。コーヒー代をカウンターに置く。 「ありがとうございました」と言う塁さんの声が、どこか楽しげに弾んでいて。 背中を押してもらったのか、からかわれただけなのか。なんだか、化かされたような気分だと、心の中で首を傾げて、おれは店を出た。




途中で会うかもしれない。そう思ったから、おれはとくに慌てずに、むしろゆっくりとした足取りで歩いていた。 暇になったこれからの予定を、ぼんやりと考えてみる。 どこへ行こう。なにをしよう。といっても、いつものように、その辺でメシ食って。その後はホテルに行くくらいしか浮かばなくて。 おれは自分の行動範囲の狭さを思い知る。地味にへこまされて、元々緩慢だったおれの思考は、そこでふと立ち止まってしまった。 そういえば、ずっと胸に引っ掛かっていることがあった。それは大げさなものではないけれど。 例えば、シャツのボタンをひとつ掛け違ってしまったような、 ほんの些細な違和感だった。おれは惰性で動いている足先を視界の隅っこに留めながら、小早川さんの顔を思い出していた。 キラキラした笑顔も、子供のような不貞腐れた顔も。もちろんセックスのときの蕩けそうな顔も、 いつだって鮮明に頭の中に映すことはできたけれど。 今、真っ先に浮かんでくるのは、おれを好きだと言う小早川さんの泣きそうな顔だった。 言われたおれは、ただただ嬉しさで胸がいっぱいなるのに。鼻に掛かった甘い声で何度も言う小早川さんは、 言ってしまって後悔しているような。まるで、好きと言うのが悪いことのような顔をする。 それでおれは、おれの思う「好き」と、小早川さんの言う「好き」は、もしかしたら違うものなのかもしれないと、不安になってしまう。 おれは本当に、自分でも笑ってしまうくらい、小早川さんのこととなると色んな感情が胸の中で急激に膨らんで、始末に負えない。 呼吸もままならなくて、ため息ばかり出てくる。 途方に暮れて、肩の力を抜くように、ゆっくり息を吐く。振り切るように顔を上げる。 建物の間から見た空は薄ぼんやりとしていた。 刷毛で掃いたような雲は消えかけていて、空なのか雲なのか、境目がもうはっきりしない。 それは晴れた午後のありふれた空で、いつもなら気にも留めないようなものなのに、 なぜだか、しばらく目が離せないでいた。




ZIPの前まで来てしまったおれは自動ドアに向かいかけて軽く振り返る。 行き違った、ということはまさかないだろう。それならそれで、携帯で居場所を知らせれば済むことだ。 自動ドアが開くのを待ち、中に入って小早川さんの姿を探す。そして三歩も進まないうちに、おれの片足は動きを止めた。
「……あ」
気の抜けた声がおれのものだと少し遅れて自覚する。 見つけて嬉しいはずなのに、そんな浮かれた気分とはまったく違うなにかがおれの両脚をフロアに縫い付けていた。 小早川さんは、台に向かっている女の真後ろに立って、肩越しに腕を伸ばし。目押ししてやっているようだった。 OLの休日といったところか。化粧っけはなく、長い髪を無造作に一本に縛り、 それでも仄かな色気のある女だった。 目が揃ったのか女が振り返り、興奮に頬を紅く染めて破顔した。小早川さんもいっしょに嬉しそうに笑う。 小早川さんが女の扱いに慣れているからだろうか、やけに親しげで。それが、とても自然で。 恋人同士に見えなくもない。というか、それ以外に見えない。 そういえば、おれも前に誘われたことがあった。 あんなふうに、頼まれて目押ししてやって。食事して、それから……。 女の姿かたちは、もうおぼろげにしか思い出せないけれど、その後のことは消えようのない事実で。 おれはどうしても、そのときの自分と、今の小早川さんを重ねてしまう。 重ねてしまって、すぐに後悔する。焦げ臭い、なにか不快なものが肺に溜まってくるのが判ったから。 女の身体が、小早川さんの腕の中で媚びるようにくねる。どちらともなく、ひそひそと耳打ち。 小早川さんは、一体、どんな顔をしているんだろう。ここからじゃ、よく、見えない。 店内はBGMやコインの落ちる音で煩いはずなのに、なにも聞こえてこない。 指がリールを叩き、ボタンを押す。 置き去りにされたような気分でおれは、小早川さんの手が見慣れた動作を繰り返すのを、ただ突っ立って見ていた。