午前零時

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ケンショウ ファンレン 




壁一面に敷き詰められた蔵書からその一冊を選び手に取った理由は解らない。
引き寄せられるようにそこに立ち、招かれるように手を伸ばした。
残留思念、などという言葉が浮かびもしたが、
それはこの部屋からいまだ消えない男の生活臭が
自分を感傷的にしているに過ぎないとそのまま脳裡の奥底に伏せた。
硬い表紙を開くと古書独特の匂いが鼻腔をついた。
捲る毎に指先から産み落とされる渇いた音が暗く湿った夜気に響いていた。
内容はどうでもよかった。視線は表面を撫でているだけだった。
そのページを開いた瞬間、セピア色に変色した紙片がやおら足元に落ちた。
( 我らに罪を犯すものを 我らが赦すが如く )
( 我らの罪をも赦し給え )
古の文体を綴る文字は右上がりの強い癖があり、けれど読み難いほどではなく。
生前の男の面影を彷彿させた。退色し始めたインクを指でなぞる。
詮無いことだ。
男がどのような罪を犯され、どのように赦したのか。
そして、男がどのような罪を犯し、赦されたいと望んだのか。
知りたくとも、もう、訊く術もない。




鮮明な赤を敷いた床に男は横たわっている。絶命は歴然としていた。 飛び散った液体や肉片は(   それはほんの数十分前まで男の頭蓋の中に収まっていたのだ) ファンレンの胸をしとどに濡らしていた。 抱え上げた男の身体は驚くほど軽かった。硬く冷たく。それはすでに蛋白質の塊でしかなかった。 半狂乱のファンレンは、頬を殴るまで物言わぬ塊に成り果てた男に縋りつき離れようとはしなかった。 ほんの数十分前まで男の体内を流れていたそれはケンショウとファンレンの衣服に新しい染みを作る。 禍々しい赤黒い染みを。それは自分たちの内面をも侵し、おそらく永遠に消えないのだろう。ケンショウは うわ言のように男の名を呼び続けるファンレンを見下ろしながら、どこか他人事のように思った。


亡骸をベッドに横たえた。死後硬直のせいで、男の身体は膝と腰を曲げた格好で固まってしまっていた。 そのまま横臥させ全身を布団で覆った。胸の位置にナイフを置く。旧い弔いの習俗だ。死出の魔除なのだという。 おそらくこの男の年齢や風体や、どこか浮世離れした物言いがそんなことを思い出させたのだろう。些事とは思った。 けれど、愛しい弟子に見守られゆっくりその刻を待つような、平穏な終焉を迎えさてやれなかったという無念にも近しい感情が ケンショウの身体を動かしていた。


ファンレンは部屋の片隅で蹲っていた。 ブランケットを頭から被り、けしてこちらを見ようとはしなかった。外界から入ってくるものすべてを拒絶しているように見えた。 ケンショウは詰めていた息を吐き出した。それは思いのほか心寂しく部屋に響いて、やがて静寂に溶けて消えた。
「 ……… ファンレン」
声というには呼気を多分に含んだそれは酷く掠れていた。呟きにも遠く及ばない。 だからその耳に届かなかったのだろうと思った。 現にファンレンはぴくりとも動かなかった。察せられるのは隅にできた薄い影と同化しそうなほどの心許ない生気だけだった。 もう一度呼んでみる。返事はない。労わるように再び呼ぶが戻ってくるのは沈黙ばかりだった。
「ファンレン」
咎めるように語気を強めて呼ぶ。反応のないファンレンに対してなのか、名前を呼ぶことほか術のない自分に対してなのか。 苛立ちが募る。歩み寄り乱暴にブランケットを剥がした。 つられてぐらりと傾き倒れてきた痩躯を胸に抱き止めた。儚い温かさが胸に染み入る。知らず嘆息がこぼれた。
「 ……… ああ …… ケンショウ」
自分以外の人間がいることに今初めて気がついたかのように。 しばらく宙を彷徨わせていた視線をケンショウに向けると、ファンレンは力なく言った。 白い顔。蒼褪めた唇。血の色を失ったその中で、殴った頬だけが淡く赤みを帯びている。 突き放す酷薄さも享受する器用さも持たないケンショウは、緩慢な瞬きを繰り返すファンレンを 見詰めていた。腕に力を篭めるとファンレンは細く息を吐いた。肩が小さく震えていた。 泣いている。直情型のこの男が涙も流さず声も漏らさず。それでも泣いているのだとケンショウは思った。 そして、こんなにも静謐で哀しい泣き方がこの世にあることを初めて知った。知りながら、ただ ひっそりと冷たい黒髪に唇を寄せるほか術のない自分を恨めしく思った。